木もれ日  10.真夜中の恐怖 | 中野区鷺ノ宮から徒歩4分の精神科・心療内科

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院長のひとりごと

木もれ日  10.真夜中の恐怖

台所で悲鳴があがり、私を呼ぶ声がした。用件は聞かずともわかっている。私は古新聞の中から夕刊を取り出すと、それを丸めながら台所に駆けつけ、床を逃げ回っているものをパシッと一撃で仕留めた。ゴキブリである。

死骸をペーパータオルでつかみ取り、床をきれいに掃除する。妻が私を賞賛の目で見るのは、最近ではこんなときくらいのものだが、まあ悪い気はしない。

妻が嫌うので仕方なく殺し屋を務めているが、私は別にゴキブリが嫌いなわけではない。むしろ腰が低く、頭も低く、実は飛べるのに滅多にその能力を使おうとしない、奥ゆかしい生き物だと思っている。

学生時代の私はきれい好きで、毎日部屋に雑巾がけをするほどだったが、台所仕事だけは苦手で、流し台にはいつも洗うつもりで放り出してある食器がうずたかく積み重なっていた。

夜中にふと目を覚ますと、台所でカサコソと音がする。覗いてみると、案の定ゴキブリが仲間を連れて嬉しそうに(と言っても、顔の表情はよく見えないのだが)台所を這い回っている。妻なら卒倒しかねない光景である。

しかし私は彼らを追い払ったりはしない。図体が大きくて黒褐色に脂ぎっているのはゴキ太、小ぶりで茶色っぽいのはゴキ子などと勝手に命名し、「夜分にお疲れさん」と声をかけて、また布団に戻るのが常であった。

以来四十年あまり、妻が騒ぎ立てるときを除いて、私と彼らとの友好関係は続いていたのだが……。

最近は年をとったせいか、朝早く目が覚める一方、宵の口からうとうとと寝てしまうことがある。先日もソファに寝転がって缶ビールを飲みながらテレビドラマを観ているうちに、いつのまにか眠ってしまった。

はっと目が覚めたときはもうドラマは終盤で、さっぱり筋が追えない。やれやれ、と思いながらぬるくなったビールを飲んだところ、ツルンと口に入って来たものがある。肉厚の椎茸を薄切りにして、くずあんかけにしたような舌ざわりである。味もなければ香りもない。

あれ、つまみの入った缶ビールなんてあったかな、と寝ぼけた頭で一瞬考えたが、さすがにこれはまずいと正気づいて、近くにあったティッシュペーパーを数枚わしづかみにすると、そろそろと吐き出した。

入って来たときと同じようにツルンと出て来たのは、通常より一回り大きい柿の種子のようなもので、よく見るとゴキブリの子どもの溺死体だった。

私は飛び上がって洗面所に走ると、インフルエンザの予防なら今後十年間は大丈夫と思うくらいうがいを繰り返した。こんなことなら缶から直接飲むような行儀の悪いまねをしないで、グラスに移しかえて飲むのだったとか、危うくゴキブリの躍り食いをするところだった、いや、溺死しているから躍り食いにはならないか、などと埒もないことを考えたり後悔したりしたが、後の祭りである。

高円寺にゲテモノを食わせる店があって、将棋部の例会のあとで一度立ち寄ったことがあるが、ゴキブリの唐揚げはあっても、ビール漬けはなかったように思う。食通を任じている人に目隠しをして口に含ませれば、

「椎茸のくずあんかけ。惜しいことに出汁が利いていない」

なんて、いっぱしの感想を言いそうな気がする。

これに懲りてしばらくはグラスに移しかえて飲んでいたが、そのうち面倒くさくなって、今はまた缶のままでビールを飲むようになってしまった。ドラマの途中で寝てしまうのは相変わらずで、気がつくと真夜中になっている。

「今日はおつまみ入りかな、どうかな……?」

と、最近の私はぬるくなった缶ビールを手に取るたびにスリリングな毎日を過ごしている。

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