7.祈るということ | 中野区鷺ノ宮から徒歩4分の精神科・心療内科

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精神科医のがん闘病記

7.祈るということ

入院の4日前、私が開業する前に勤めていた職場の仲間たちが集まって壮行会を開いてくれた。入院の壮行会とは妙なネーミングだが、しっかり癌と闘って無事に帰って来いという意味では、案外正しいのかもしれない。

会を開くにあたって私は入院中のお見舞いも見舞金も一切お断りという条件をつけた。それでは気が済まないという人には、今回の入院治療がうまく行くように祈ってほしいと伝えた。

癌の治療法の進歩には目をみはるものがあり、それはそれで力強い味方なのだが、昔ながらの祈るという行為にも、科学とは異なる効能があると私は思っている。

小学生の頃、海の近くに住んでいた私は、元日の未明に近所の遊び仲間を誘って、海岸まで2キロほどの暗い道をマラソンで駆け抜け、初日の出を拝むのが恒例だった。海といっても徳島から見えるのは紀伊水道で、山に登れば対岸の和歌山がうっすらと見えることがある。しかし浜辺に立っている限り、太陽はちゃんと水平線から上ってくるのである。

その年も無事に初日の出を迎え、お祈りをしたあとで、私はふと「これは間違っているのではないか」と思った。中学1年生のときである。

そのとき何をお祈りしたのかは忘れたが、自分のことを神様にお願いするのは筋違いではないかと思ったのである。自分のことは自分で何とかすればよい。自分ではどうしようもないことこそ、神様にお願いするべきではないのか。

以来私は自分のために神仏を拝んだことは一度もない。受験シーズンのニュース番組で「〇〇大学に合格しますように」などと書かれた絵馬を見ると、そんなものを書いている暇があったらなぜ勉強しないかと、不思議でならない。

それはともかく、壮行会では全員から病気平癒のお守りを贈られ、感激した。正真正銘、彼らが私のために祈ってくれた証だからである。入院中も私のために毎日「元気玉」を送ってくれると言う。こんなにありがたい話はない。

もうひとり、将棋仲間で横浜に引っ越した人が、近くの伊勢山皇大神宮から授かったというお守りを持って来てくれた。これからは毎日散歩のついでにお詣りをしてくれると言う。もったいない話である。

ところでカミュの不条理の哲学にも、サルトルの実存主義哲学にも、神は一切登場しない。私も自分は無神論者だと思っている。それなのに祈りの力を信じるのは矛盾しているのではないかと言われるかもしれない。

誤解を避けるために私自身の立場を明らかにしておくと、私は神を否定するものではない。ルドルフ・オットーの「聖なるもの」やミルチャ・エリアーデの「聖と俗」に書かれている通り、「神」としか名づけようのないものは確かに存在する。肝心なのは、神が存在しようとしまいと、私の生き方には何ら影響がないということである。私は生きていくために神を必要としない。そういう意味での無神論者である。

6年前に他界した私の母は、夫に従い子供に尽くすという昔気質の人間だった。もの静かな人だったが、子供を守るためには父にも頑強に反発する気丈さがあった。子供時代の私は父に叱られることも恐かったが、母に泣かれるほうがよほど身にこたえた。

自分の無力を知っていた母は祈る人でもあった。私がこれほど浮き沈みの激しい人生を送りながら、大きく道を踏み外すこともなく生きてこられたのは、ひとえに母の祈りがあったからだと思っている。

無私の祈りにはそれだけの力があるのである。

(闘病中ですが、診療は平常通り行っています)

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