エッセイ
連載エッセイ(2) リヤカーの引き方教えます
文学部を卒業して、 またぞろ医学部に行きたいと申し出たとき、父は「よきにはからえ」と鷹揚だったが、長兄にひどく叱られた。父はすでに退職しており、嘱託として勤め続けてはいたが、収入は微々たるものだった。
長兄に「いいかげんにしろ」と叱り飛ばされた私は、売り言葉に買い言葉で、「仕送りは一切いらない」と大見得を切ったものの、いざ合格してみると、たちまち入学金が払えない。長兄に内緒で父と交渉し、入学金と当座の生活費を工面してもらって、私は岐阜に旅立ったのだった。
最初のアパートはずいぶん辺鄙なところにあって、銭湯に行くと、帰る頃には身体が冷え切っているような始末だった。これはたまらんと、入学して一ヵ月も経たないうちに引っ越すことに決めたのだが、はたと困ったのはその費用である。当面食いつないで行かねばならない以上、トラックを雇うだけのゆとりはない。
思案投げ首で大学のキャンパスを歩いていたら、用務員のおじさんが構内の樹木の枝を切り払い、それをリヤカーに積んで運んでいる姿が目についた。
「これだ!」
私は欣喜しておじさんに駆け寄ると、「これ、貸してもらえませんか?」と、早速商談に入った。おじさんは事情を聞いて納得してくれたものの、「しかし、大学の備品だからなあ……」と当惑顔であった。それでも「まあ、五時以降ならいいでしょう」と、お役人のような妥協案を出し、謝礼もいらないと言ってくれたので(これはお役人らしくない?)、私は早々に引っ越しの準備に取りかかった。
準備と言っても、やぐら炬燵に電気スタンド、それに本棚と五十冊ばかりの本を除けば、あとは布団と食器類だけの簡素なものである。約束通り五時に用務員室からリヤカーを借り受けると、バランスに注意しながら荷物を積み込んだ。ちなみにリヤカーに荷物を積むときには、タイヤの軸より若干前方に重心が来るように配分するのがよろしい。
あいにくの小雨模様で、私は荷物の上に茣蓙をかけて縛りつけると、よれよれの体操着にタオルで頬かぶりという、夜逃げさながらのいでたちでリヤカーを引き始めた。
アパートは小高い丘の上にあり、しょっぱなから下り坂という、リヤカーの操縦には最も難度の高い関門が待ち構えていたが、これを何とかクリアすると、いつのまにか私は年季の入ったバタ屋のおじさんのように、腰を落とした地摺り足でリヤカーを引いていたのだった。
引っ越し先までは五キロほどの道のりだった。ところが、長良川を越え、大学病院を過ぎたあたりで右折しないといけないところを、そのまま直進してしまったために、私は「柳ヶ瀬ブルース」で有名な岐阜随一の歓楽街にリヤカーを引いて突入してしまったのである。
ちょうど宵闇にネオンがきらめき始めた時刻で、そのスジの和服の女性たちが好奇の目で私を見つめている。祇園の街なかをチンドン屋が通っているようなものである。
私は道を間違えたことに気づいて青くなった。後続のベンツにクラクションは鳴らされるわ、あわてて方向転換したときに車の渋滞はできるわで、散々な目にあったが、どうにか引っ越し先に辿り着いた。積み荷を下ろし、リヤカーを用務員室に返し終えたのは、もう十時を回っていた頃ではないかと思う。
やれやれ、と頬かぶりをしたタオルで汗を拭いつつ長良橋を渡っていたら、今度は警官に呼び止められた。こんな時刻に何をしているんだね、というわけである。突きつけられた懐中電灯に浮かび上がっているのは、薄汚れた体操着にタオルで頬かぶりをしている「一見労務者風」の自分の姿である。私はしどろもどろになりながら事情を説明し、まだ胡散臭げな顔をしている警官から逃げるようにその場を離れたのだった。
こうして私はリヤカーの引き方を会得した。その秘技を伝授することにやぶさかではないが、三十年以上前の柳ヶ瀬ですらあの始末だから、今の東京ではたぶんリヤカーを引かないほうがいいのではないかと思う。
連載エッセイ(1) 人生を変えた一冊
その日、私は通学途上にある一軒の書店に立ち寄った。京都の今出川通りと白川通りが交差するあたりで、そのまま東へ歩けば銀閣寺に突き当たる。文学部に入ったばかりの私が、フランス文学を読み漁っていた頃の話である。
中学時代に始まった私の読書癖は、高校で「罪と罰」に出会って以来、ロシア、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカと、脈絡もない乱読に陥った。それがフランス文学に落ち着いたのは、フランソワ・モーリヤックの「テレーズ・デケイルゥ」を読んでからのことである。テレーズの後半生を描いた「愛の沙漠」、「夜の終り」の三部作を読み終えたのがいつ頃だったか忘れたが、私は文学部に入る前から「フランソワ・モーリヤックで卒業論文を書きたい」と思うようになっていた。
何気なく立ち寄った書店で新潮文庫の背文字を漫然と眺めていた私の目が、ミュッセの「二人の愛人」の前で止まった。今は知る人も少ないだろうが、ミュッセは「愛の妖精」を書いた男装の麗人ジョルジュ・サンドを作曲家ショパンと争い、その恋の鞘当てに敗れた男である。ミュッセの「戯れに恋はすまじ」は高校時代に読んでいたが、受験勉強に追われて、まだ「二人の愛人」は読んでいなかった。私は迷うことなくその一冊を手に取った。
ところが……である。下宿に帰って頁を開いてみると、表紙こそ「二人の愛人」だったものの、中身はアルベール・カミュの「異邦人」だったのである。
ここで私はみみっちいことを考えた。このまま「異邦人」を読ませてもらったあとで、「乱丁本でしたよ」と文句を言って、あらためて「二人の愛人」を手に入れれば、一冊で二冊の本が読めるではないか。一粒で二度おいしいグリコのようなものである。
私は「しめしめ」とほくそ笑みながら「異邦人」を読み始めた……。
……そのとき私が受けた衝撃の強さを、何にたとえたらいいだろう。頭をガーンと一発棍棒で殴られたような、としか言いようのない強烈なショックを私は体験した。後年、医学部の講義でクモ膜下出血の症状を聞いたとき、「あ、これだな」と思い当たるものがあった。私は「異邦人」を読んで心理的クモ膜下出血を起こしたのである。
実を言うと、この本の内容が私にはさっぱり理解できなかった。しかし、何かとてつもない世界が描かれていることだけは、痛いほど肌で感じた。それは高校時代にカフカの「変身」を読んだときに受けた衝撃よりも、はるかに強いものだった。
爾来、私はモーリヤックを離れ、ひたすらカミュを読み耽るようになる。もちろんサルトルも読んだ。モーリヤックという敬虔なキリスト教者から、サルトル、カミュという実存主義者へと、私の関心は百八十度転回したのである。結局私が選んだ卒業論文のテーマは「アルベール・カミュ研究」だった。
卒業論文に取りかかった頃、第一次オイルショックが起こった。その煽りを受けて文学部卒業生にはほとんど求人依頼が来なくなった時、私は突然、医者になろうと思った。この滅茶苦茶な決断の背後には、いささか面映ゆいが、紛うかたなき実存主義哲学が働いている。一冊の乱丁本に出くわさなければ、私はおとなしく公務員試験でも受けて、今頃はどこかの役所で事務を執っていたかもしれないのである。
三十数年前に出会ったその乱丁本は、取り替えて得をしようなどというみみっちい真似はせず、今も記念品として手元に置いてある。
一冊の本が人生を変える……。人生とは不可思議なものである。かくいう私の人生も、表紙は医学部だが中身は文学部という、一冊の乱丁本みたいなものではないか。
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