西武新宿線 鷺ノ宮駅徒歩4分 曽根クリニック中野区鷺ノ宮から徒歩4分の精神科・心療内科、曽根クリニックのブログ

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21.乱気流

毎朝散歩に出かけられるようになった頃、主治医から治験への参加を打診された。京都大学の本庶佑教授がノーベル医学・生理学賞を受賞するきっかけとなったニボルマブ(商品名オプジーボ)で、当時は悪性黒色腫と非小細胞肺癌に加えて、新たに腎細胞癌とホジキンリンパ腫が保険適用になったばかりだった。それを食道癌にも拡大しようというのである。

ニボルマブは癌治療に免疫療法という新しい分野を切り開いた画期的な薬剤で、その効果もさることながら、100mgで73万円という高い薬である。それを2週間に1回、6カ月間にわたって点滴静注することになる。「南蛮渡来の……」という決まり文句ではないけれど、高価な薬を湯水の如く打ってもらえるということに目がくらんで、私は一も二もなく手を挙げた。

もっともこの治験は二重盲検法で行われるため、私に投与される薬剤がニボルマブか偽薬かはわからない。それでも、もしニボルマブにばっちり当たって、治験の期間中に食道癌が完治するようなことでもあれば儲けもの、というみみっちい打算が働いたことも確かである。

つい数カ月前までは死ぬことばかりを考え、修行僧のように心の準備も万端整えてきたというのに、治験の話ひとつでかくも浮き足立ってしまうとは我ながら情けない。

手術から3カ月、まだ傷が痛むことがあって身体を十分に動かせず、風呂に入っても腸瘻があるのでうかつに洗えないという不便な日々が続いていたが、春の到来とともに私の気持ちは少しずつ上向きになって行った。朝の散歩は相変わらず30分だが、足が速くなったので距離が伸び、その分多くの花を見つけることができるようになった。

やがて味覚障害も改善し、以前より食べる量が増えた。体重は50kgから51kgの間を行き来するばかりで一向に増えなかったが、身体の動きは日を追って良くなって行った。妻の付き添いがなくても通院できることはもちろん、しばらく休んでいた嘱託医の仕事にも復帰できるようになった。

当時の手帳を見ると開業前に勤めていた職場の仲間による快気祝い、鷺宮ブロック懇親会、新聞編集委員会の花見会と、たて続けに飲み会があって、私は碌に飲めないながらすべての会に参加している。治験では副作用らしき徴候もなく、偽薬かもしれないと疑う一方、いやこれは本物だと言い聞かせて、2週間に1回の通院を黙々と続けていた。体調は万全とはいえないが、気分は上々だったのである。

初夏のある日、血液検査を受けるべくエスカレーターに乗った私を治験の担当医が見かけて声をかけて来た。通常なら知らん顔で通り過ぎるところだが、私が医師であることから、あえて呼び止めたのだと言う。

「あとで主治医からお聞きになると思いますが」
「はい?」
「肺転移が見つかりました」

私は一瞬何のことか理解できず、ポカンとしていたと思う。やがてその意味が腑に落ちると、「なぜだ?」という、理不尽な事柄に対する怒りとも苛立ちともつかない感情が湧いて来た。

治験の担当医に文句を言う筋合いではないので、わかりましたと言ってその場を離れたが、しばらくの間私は自分の感情を持て余した。私は手術が成功したこと、術後のPET検査で転移が見つからなかったこと、ニボルマブの治験が始まったことなどから、いつしか自分は治癒に向かっているものと勝手に決め込んでいたのである。

この日を境に私の心は乱気流に巻き込まれ、乱高下をくり返すことになる。

(診療は平常通り行っています)
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